翻訳と辞書 |
渡辺三郎 (工学者) 渡辺 三郎(渡邊 三郎、わたなべ さぶろう、1880年(明治13年)12月2日 - 1951年(昭和26年)1月8日〔『「現代物故者事典」総索引 : 昭和元年~平成23年 1 (政治・経済・社会篇)』日外アソシエーツ株式会社、2012年、1382頁。〕)は、日本の工学者、実業家、政治家。工学博士、貴族院勅選議員。旧姓・大河原〔#特殊鋼の父、21-22頁。〕。「特殊鋼」の命名者〔#特殊鋼の父、96頁。〕。 ==経歴== 群馬県碓氷郡松井田駅で、商業・大河原新七、野恵夫妻の三男として生まれる〔。群馬県尋常中学校、第一高等学校工科を経て、1907年6月、東京帝国大学工科大学採鉱冶金学科を卒業〔#特殊鋼の父、24-38頁。〕。 大学卒業後、古河鉱業所 (株)(現古河機械金属)に入社し足尾鉱業所精錬課溶鋼係長に就任〔#特殊鋼の父、39頁。〕。1908年6月、実業家・渡辺福三郎、多満子夫妻の五女で従姉妹の那べと入夫縁組して渡辺と改姓〔#特殊鋼の父、42頁。〕。1911年3月、古河鉱業所を退職して、ドイツ帝国のアーヘン工科大学に留学し、真鍮・黄銅の研究を行った〔#特殊鋼の父、43、56頁。〕。1915年5月、学位論文「銅―亜鉛合金の特性と熱処理による影響の研究」(ドイツ語)を提出したが、第一次世界大戦の影響で学位の正式認定は1925年2月となった〔#特殊鋼の父、56-60、80頁。〕。1915年6月、妻の危篤の知らせを受けて急遽、陸路で帰国し、同月20日に東京の自宅に到着したが、妻は同月5日に既に死去していた〔#特殊鋼の父、80-81頁。〕。 1915年11月、日本特殊鋼合資会社(現大同特殊鋼)を設立して社長に就任。東京府荏原郡大森町(現大田区)に大森工場を建設して1916年4月に操業を開始した〔#特殊鋼の父、97-102頁。〕。その後、日本鉄鋼協会会長、鉄鋼統制会評議員、大森工業学校長、東京帝国大学講師、工業品規格統制調査会、日本学術振興会委員、臨時物資調整局委員、電力使用合理化技術委員会委員などを務めた〔『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』179頁。〕。 1946年9月に貴族院勅選議員に任じられ、交友倶楽部に所属し1947年5月2日の貴族院廃止まで在任した〔。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「渡辺三郎 (工学者)」の詳細全文を読む
スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース |
Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.
|
|